
タミヤ1/35歴史・人物シリーズ 忠臣蔵です。
箱絵は左側、大石内蔵助、右側、早水藤左衛門です。

裏面は左側、不和数右衛門、右側、堀部安兵衛です。
このキットは4体入りです。

左上から、間十次郎、右上、大石主税、左下、原惣右衛門、右下、片岡源五右衛門です。

裏面は、左上、武林唯七、右上、大高源吾、左下、堀部彌兵衛、右下、赤垣源蔵です。
このキットは8体入りです。
・大石内蔵助
赤穂藩国家老・千五百石取り、四十七士のリーダーとなり、討ち入りを成功させました。
山鹿素行伊藤仁斎の教えを受け、剣は東軍流の免許皆伝で文武両道にすぐれた人物だったようです。
性格は温厚、ものにこだわらず、昼あんどんなどと悪口を言われましたが、実際は思慮深く統率力のある人であり、討ち入りの成功もこの人がいたからと言えるでしょう。敵をあざむくための祇園での遊びは有名、享年四十五才。
・早水藤左ヱ門
馬廻・百五十石取り、赤穂藩中第一の弓使い手と言われた人。松の廊下の事件の時は江戸にあり、事件が起きるや菅野三平と共に第一の急使となって赤穂に向かい、約620キロ、四昼夜半をかごに乗り続け、内蔵助に事件を知らせました。
討ち入りでは、表門隊に属し、屋外にあって屋敷から出る敵を得意の弓でおびやかし、引き上げの時には、あかりの見える部屋に一矢射込んで敵を驚かせたと言われています。享年四十才。
・不和数右衛門
元馬廻・浜辺奉行・百石取り、浅野内匠頭切腹の五、六年前、過失があって百日の閉門を命ぜられ、自ら願い出て浪人となって江戸に出ていました。元禄十四年十一月、大石内蔵助が内匠頭の墓参りをした際、許されて討ち入りの同志に加えられることになりました。討ち入りにあたっては裏門隊に属し、四、五人の敵を倒して討ち入り第一の活躍をしたと伝えられています。享年三十四才。
・堀部安兵衛
馬廻・使番・二百石取り。直心影流免許皆伝の剣の達人。もとは山中安兵衛を名乗っていましたが、有名な高田の馬場の仇討ちで名を高めたことにより、浪人中のところを赤穂浅野家・江戸留守居役の堀部彌兵衛に見込まれ、その一人娘と結婚、堀部安兵衛を名乗りました。浅野家取り潰し後は江戸に出、討ち入りの早期決行を強く主張、討ち入りでは裏門隊に属し、大活躍を見せました。享年三十四才。
・間十次郎
父・喜兵衛・弟・新六ともに討ち入りに加わりました。槍の名手であり、また剣も堀部安兵衛らと同じく、直心影流を堀内源太左衛門に学びました。討ち入りでは表門隊に属して活躍、武林唯七らとともに炭小屋に隠れた上野介を見つけ、一番槍をつく手柄を立てました。その功により、上野介の首を落とす名誉の役をはたし、また討ち入り後の主君の墓前への報告でも、第一番に焼香することを許されています。享年二十六才。
・大石主税
大石内蔵助の長男で幼名を松之丞、義士四十七名のうち最年少で討ち入りの時は十五才でした。元服は元禄十四年十二月か翌年一月で、主税良金と名乗り、内蔵助の名代として活躍することになります。
性格は、若年にもかかわらず思慮深かったと言われ、身体も大柄だったそうです。討ち入りはでは、吉田忠左衛門を後見人として、裏門隊の大将として指揮にあたりました。享年十六才。
・原惣右衛門
足軽頭・三百石取り、大石内蔵助の参謀として計画実現に大きな功績のあった人です。内匠頭の切腹、城地没収の処分を知らせるために約620キロをかごに乗り続け、四昼夜半で赤穂へ知らせをもたらすという第2の使者の大役をはたしました。
討ち入りでは表門隊に属し、掘を乗り越える際、足をすべらせ、打撲傷を負ったにもかかわらず隣家の武家屋敷へのあいさつなど活躍しました。享年五十六才。
・片岡源五右衛門
御用人児小姓頭、三百石取り、幼い頃から頭が良く、また顔立ちもすぐれ、特に内匠頭から目をかけられていた人のようです。
また、内匠頭の切腹が行われる田村右京太夫家に駆けつけ、ただ一人最後の対面をしたのもこの人です。
事件後、当初は、磯貝十郎左衛門と共に、大石内蔵助達とは別の独自の行動をとっていました。後、同志に加わり、討ち入りでは表門隊の一員として活躍しました。享年三十七才。
・武林唯七
馬廻・十五両三人扶持、祖父は朝鮮からの帰化人であり、このことを誇りにしていたと言われます。母が内匠頭の乳母であったことから、中小姓として常に内匠頭の側近に仕えていました。討ち入りの早期決行を主張した一人で、討ち入りの時には表門隊に属し、上野介の養子・左兵衛義周に傷を負わせ、また間十次郎と共に炭小屋にかくれた上野介を見つけ、一番刀を与えました。享年三十二才。
・大高源吾
膳番元方・腰物方・金奉行・二十石五人扶持、文武両道にすぐれ、特に俳句では、俳号を子葉と称し、名手であったと言われます。
内匠頭切腹の後赤穂に帰り、内蔵助の腹心として連絡や同志の結束を固めることに活躍、また江戸へ出てからは吉良家出入りの茶の湯の宗匠宗徧の弟子となり、討ち入り日決定のために上野介の在宅を確かめる功績があり、討ち入りでは表門より一番乗りをはたしました。享年三十二才。
・堀部彌兵衛
前江戸留守居役、隠居料五十石、堀部安兵衛の養父で浅野家三代に仕えた譜代の臣でした。義士のうち最年長で討ち入りの時は七十六才でした。内匠頭の切腹後も江戸に住み、事件の時はすでに七十五才の高齢であったため、討ち入りの早期強行を強く主張、討ち入りでは表門や新門を守り実際以上の人数を大声で指揮して敵を欺く心理作戦を取りました。享年七十七才。
・赤垣源蔵
馬廻・二百石取り、浅野家の初代より仕えた譜代の家来です。姓は、ふつう赤垣と言われていますが、赤埴(あかばね)が正しく、埴のくずし字が似ているために垣とされたと言われます。また講談などの「赤垣源蔵・徳利の別れ」で大酒のみとして知られていますが、実際にはあまりお酒は飲めなかったようです。討ち入りでは裏門隊に属して堀部安兵衛などと共に活躍。享年三十五才。
タミヤより歴史・人物シリーズ 忠臣蔵が再販されました。
諸外国では、この様な歴史・人物のフィギュアが人気で、ヒストリカルフィギュアとしてジャンルを確立しています。
日本ではこのジャンルはまだそれ程人気があるとは言えません。
一部のマニアが外国製のフィギュアを製作されてますが、侍物は少ない様です。
このキットはプラ製で安価であり、資料性も高く、外国製の高価なメタルフィギュアより私は好きです。
今後もメーカーさんには、このジャンルで頑張ってもらいたいと思います。