
本日のキットは、ファインモールド1/48 海軍皇国二号兵器 特殊攻撃機 試製 橘花です。
大戦末期に海軍が開発した双発ジェット戦闘攻撃機で、日本初の純国産ジェット機です。

機首に入れる重りのボルトが付属しています。
簡単ながらコクピット内部が再現されます。

エンジンは、インテーク部と排気口のパーツのみで本体はありません。
実機同様シンプルでパーツも少ないです。

組説には日本語と英語で機体解説が記されています。
塗装、マーキングは、試験飛行した高岡迪少佐機のものです。
1944年8月、日本は高高度を飛行するための過給機付き高性能レシプロエンジンの開発に行き詰まります。
また、原油生産地のマレー半島と日本本土間の制海権の損失から燃料事情も悪化していました。
海軍は、低質燃料、低質潤滑油でも稼働し、レシプロエンジンに対して構成部品が少ないジェットエンジンに注目しました。
高性能なジェットエンジンを装備した陸上攻撃機を「皇国二号兵器」として企画し、中島飛行機に開発指示を出します。
初期原案は3案
第1案は胴体の上下にジェットエンジンを配置する胴体上下コンパウント型(双ブーム支持)
第2案はエンジンは胴体側面に埋め込む胴体埋め込み型
第3案は主翼下にエンジンを懸架する主翼懸架型
第2案が最も進歩した方式でしたが技術的な面から第3案が採用されました。
その後、哨戒艇用の小型ボート用ディゼールエンジンが欲しかったドイツ側とMe262のジェットエンジンが欲しかった日本との間で技術提供が合意され、日本とドイツの潜水艦で設計図をそれぞれ運びます。
ドイツの潜水艦は1944年末頃にインドネシアのバリクババンに到着、日本海軍士官と情報交換を行いました。
日本海軍潜水艦は、バシー海峡でアメリカ軍の潜水艦の攻撃を受け沈没、資料は失われてしまいました。
シンガポールで零式輸送機に乗り換えて帰国した巖谷中佐が持ち帰った一部の資料しかありませんでした。
肝心な機体部分やエンジンの心臓部の設計図が存在せず、結果的に大部分が日本独自の開発になりました。
外観はMe262に似ていますがサイズが一回り小さく(エンジンの推力が小さい為)コンパクトです。
主翼は後退翼ではなくテーパー翼を採用したためほとんど独自設計です。
本機は掩体壕に隠せる様に主翼部を人力で上方に折り畳む事が出来ました。
降着装置は開発期間短縮と部品調達の合理化で前輪は銀河の尾輪、主輪は零戦の主輪が流用されています。
また、ジュラルミンなどの資材欠乏に対応して鋼板、鋼材などを使用しているのも特徴です。
工場が大規模空襲により壊滅状態となり橘花は農家の養蚕小屋に分散して組立が行われました。
試作機は、1945年6月に完成し、エンジンの耐久試験もパスして飛行実験を行うべく木更津基地へ運ばれました。
8月7日に燃料を16分間分だけ積んだ軽荷状態で飛行を行い、12分間の飛行に成功します。
実飛行は12日に行われ、離陸中にオーバーランして主翼を破損、3日後に終戦を迎えました。
本機は爆撃による対艦攻撃を目的とした特殊攻撃機です。
桜花の様に初めから特攻専用として設計された特別攻撃機ではなかったが、特別攻撃機を表す「花」の名称が付いている事や当時の戦況を考えれば、特攻機として使う以外に用兵は無かったと言う意見もあります。
また、軍部では、高価かつ高い生産性を要すエシプロエンジンを特攻機に使用して使い捨てるより、温存して防空用迎撃機に使用したいと考えており、技術面を克服して量産にさえ至れば、レシプロエンジンよりも安価かつ量産が容易なジェットエンジンこそ特攻機に搭載するエンジンに最適であると考えていました。
しかし、当時海軍航空技術廠で本機の開発に参加していた角信朗海軍大尉による日本海軍の裏話として「特攻機 橘花」の名前が示す様に当然、戦闘機として使用出来るジェットエンジンを装備しながら、特攻機としてしか生産も出来なかったし、パイロットの養成も出来ないと言う異常な状況に遭遇していた」と言う内容から、本機が、ジェット戦闘機としての本分を要求されながらも、名目上は特攻機としてでしか開発許可が下りなかった現状があります。
それが特別攻撃機を表す「花」の名称が付いている理由になっています。
ただし、橘花のエンジン艤装を担当した渡辺進は「橘花は体当たり攻撃機ではなく、最初から帰還を前提とした特殊攻撃機であった」と語っており、橘花は特別攻撃機ではなかったことを示唆しています。

橘花には、当初ネ12B(推力320㎏)が搭載される予定でした。しかし、1945年4月、より高推力のネ20に変更された経緯がありました。ネ12Bを搭載した場合、初風エンジンを搭載する予定でした。
ネ20は日本初の実用に耐えるターボジェットエンジンです。推力475㎏で、エンジン寿命は連続運転で40時間と非常に短かったのです。これは推力軸受座金の焼付きがあったためで、日立製作所安来工場が開発した最高性能の工具鋼によって何とか実用化の目処を得ます。
ドイツへ派遣された伊号第29潜水艦にはジェットエンジンの実物を含む技術資料が搭載されていましたが、この潜水艦は途中で入港したシンガポールからの出港後に撃沈されました。したがって、橘花製作に役立つ情報は、シンガポールで降ろされ先に飛行機で運ばれたBMW003Aの縮尺断面図(キャビネ版写真一枚)とユンカースjumo004Bの実物見学記録のみであり、これらが辛うじて日本に届きました。
当時ジェットエンジンのタービンプレートを製作するのに必要なニッケル、モリブデンなどの耐熱合金用材料も枯渇していた最中にこれらのわずかな資料を参考に、たった1年でエンジンを造り、低出力ながらも実用運転状態までこぎつけたことは、ネ10、ネ10改、ネ12、ネ12Bなど、それまでの独自開発経験の蓄積があったとはいえ、まさに国力を超えた技術者達の執念と言うほかありませんでした。種子島時休中佐率いる設計チームはそれまで設計を進めていた軸流式+遠心式のネ12Bを放棄し、新たに軸流式のネ20を開発した形になるが、開発の方向性が間違っていなかったことを確認して自信を深めたと言います。
また、推力を20%増した、改良型のネ20改が設計されていて、試作にまでには至りませんでした。推算値では、速度が15%増し、当時の世界のエンジンに比べても遜色がない性能でした。
近年、500枚に及ぶ完全なる設計図が発見されました。
これによると軸流式コンプレッサーが8段から6段に変更されており、エンジンの全長も短くなって軽量化されています。

このキットは、1995年に4800円で発売されました。
彗星のキットも高額でしたが、橘花はその内容からしても「高い」と思ったものでした。
金属パーツやエッチングパーツも付属していません。
しかし、貴重な1/48橘花のキット、当時泣く泣く購入したのを覚えています。